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一 - 4

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「箆棒(べらぼう)め、うちなんかいくら大きくたって腹の足(た)しになるもんか」
「何(なあ)におれなんざ、どこの國へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠(ちゃばたけ)ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己(おれ)の後(あと)へくっ付いて來て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「君も車屋の貓だけに大分(だいぶ)強そうだ。車屋にいると御馳走(ごちそう)が食えると見えるね」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家(うち)は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「車屋の方が強いに極(きま)っていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
我儘(わがまま)もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間九九藏書の不徳についてこれよりも數倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園(ちゃえん)がある。広くはないが瀟灑(さっぱり)とした心持ち好く日の當(あた)る所だ。うちの小供があまり騒いで楽々晝寢の出來ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然(こうぜん)の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は晝飯後(ちゅうはんご)快よく一睡した後(のち)、運動かたがたこの茶園へと歩(ほ)を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな貓が前後不覚に寢ている。彼は吾輩の近づくのも一向(いっこう)心付かざるごとく、また心付くも無頓著な九*九*藏*書るごとく、大きな鼾(いびき)をして長々と體を橫(よこた)えて眠っている。他(ひと)の庭內に忍び入りたるものがかくまで平気に睡(ねむ)られるものかと、吾輩は竊(ひそ)かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒貓である。わずかに午(ご)を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に拋(な)げかけて、きらきらする柔毛(にこげ)の間より眼に見えぬ炎でも燃(も)え出(い)ずるように思われた。彼は貓中の大王とも雲うべきほどの偉大なる體格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立(ちょりつ)して余念もなく眺(なが)めていると、靜かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐(ごとう)の枝を軽(かろ九_九_藏_書)く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっとその真丸(まんまる)の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀(こはく)というものよりも遙(はる)かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。雙眸(そうぼう)の奧から射るごとき光を吾輩の矮小(わいしょう)なる額(ひたい)の上にあつめて、御めえは一體何だと雲った。大王にしては少々言葉が卑(いや)しいと思ったが何しろその聲の底に犬をも挫(ひ)しぐべき力が籠(こも)っているので吾輩は少なからず恐れを抱(いだ)いた。しかし挨拶(あいさつ)をしないと険呑(けんのん)だと思ったから「吾輩は貓である。名前はまだない」となるべく平気を裝(よそお)って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平read.99csw•com時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大(おおい)に軽蔑(けいべつ)せる調子で「何、貓だ?貓が聞いてあきれらあ。全(ぜん)てえどこに住んでるんだ」隨分傍若無人(ぼうじゃくぶじん)である。「吾輩はここの教師の家(うち)にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠(や)せてるじゃねえか」と大王だけに気焔(きえん)を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の貓とも思われない。しかしその膏切(あぶらぎ)って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう雲う君は一體誰だい」と聞かざるを得なかった。「己(お)れあ車屋の黒(くろ)よ」昂然(こうぜん)たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき亂暴貓である。しかし車屋だけに強いばかりでちっread.99csw.comとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的(まと)になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮(けいぶ)の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無學であるかを試(ため)してみようと思って左(さ)の問答をして見た。
「一體車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
彼は大(おおい)に肝癪(かんしゃく)に障(さわ)った様子で、寒竹(かんちく)をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己(ちき)になったのはこれからである。
その後(ご)吾輩は度々(たびたび)黒と邂逅(かいこう)する。邂逅する毎(ごと)に彼は車屋相當の気焔(きえん)を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。