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やがて陰士は山の芋の箱を恭(うやうや)しく古毛布(ふるげっと)にくるみ初めた。なにかからげるものはないかとあたりを見廻す。と、幸い主人が寢る時に解(と)きすてた縮緬(ちりめん)の兵古帯(へこおび)がある。陰士は山の芋の箱をこの帯でしっかり括(くく)って、苦もなく背中へしょう。あまり女が好(す)く體裁ではない。それから小供のちゃんちゃんを二枚、主人のめり安(やす)の股引(ももひき)の中へ押し込むと、股のあたりが丸く膨(ふく)れて青大將(あおだいしょう)が蛙(かえる)を飲んだような――あるいは青大將の臨月(りんげつ)と雲う方がよく形容し得るかも知れん。とにかく変な恰好(かっこう)になった。噓だと思うなら試しにやって見るがよろしい。陰士はめり安をぐるぐる首(くび)っ環(たま)へ捲(ま)きつけた。その次はどうするかと思うと主人の紬(つむぎ)の上著を大風呂敷のように拡(ひろ)げてこれに細君の帯と主人の羽織と繻絆(じゅばん)とその他あらゆる雑物(ぞうもつ)を奇麗に畳んでくるみ込む。その熟練と器用なやり口https://read.99csw.comにもちょっと感心した。それから細君の帯上げとしごきとを続(つ)ぎ合わせてこの包みを括(くく)って片手にさげる。まだ頂戴(ちょうだい)するものは無いかなと、あたりを見廻していたが、主人の頭の先に「朝日」の袋があるのを見付けて、ちょっと袂(たもと)へ投げ込む。またその袋の中から一本出してランプに翳(かざ)して火を點(つ)ける。旨(う)まそうに深く吸って吐き出した煙りが、乳色のホヤを繞(めぐ)ってまだ消えぬ間(ま)に、陰士の足音は椽側(えんがわ)を次第に遠のいて聞えなくなった。主人夫婦は依然として熟睡している。人間も存外迂濶(うかつ)なものである。
「山の芋が一箱」
「黒足袋が一足」
「品物は一々かくんですか」
「知りませんわ、知りませんが十二円五十銭なんて法外ですもの」
「そうですね」と細君は考える。考えれば分ると思っているらしい。
「眼が覚めたのは何時だったかな」
「それで盜難に罹(かか)ったのは何時(なんじ)頃ですか」と巡査は無理な事を聞く。時九-九-藏-書間が分るくらいなら何(な)にも盜まれる必要はないのである。それに気が付かぬ主人夫婦はしきりにこの質問に対して相談をしている。
「馬鹿馬鹿しいじゃありませんか、いくら唐津(からつ)から掘って來たって山の芋が十二円五十銭してたまるもんですか」
「それでは、ここから這入(はい)って寢室の方へ廻ったんですな。あなた方は睡眠中で一向(いっこう)気がつかなかったのですな」
「生意気に高い帯をしめてるな。今度から一円五十銭くらいのにしておけ」
「その次は何だ」
「山の芋のねだんまでは知りません」
「知らんけれども十二円五十銭は法外だとは何だ。まるで論理に合わん。それだから貴様はオタンチン·パレオロガスだと雲うんだ」
吾輩はまた暫時(ざんじ)の休養を要する。のべつに喋舌(しゃべ)っていては身體が続かない。ぐっと寢込んで眼が覚(さ)めた時は彌生(やよい)の空が朗らかに晴れ渡って勝手口に主人夫婦が巡査と対談をしている時であった。
「六円くらいでしょう」
「糸織(いとおり)の羽織です、あれは河野(こうの)のhttps://read.99csw.com叔母さんの形身(かたみ)にもらったんで、同じ糸織でも今の糸織とは、たちが違います」
「十五円の羽織を著るなんて身分不相當だ」
「じゃあね、明治三十八年何月何日戸締りをして寢たところが盜賊が、どこそこの雨戸を外(はず)してどこそこに忍び込んで品物を何點盜んで行ったから右告訴及(みぎこくそにおよび)候也(そうろうなり)という書面をお出しなさい。屆ではない告訴です。名宛(なあて)はない方がいい」
「ええ私(わたく)しの伏せったのは、あなたより前です」
「どうするつもりか知りません。泥棒のところへ行って聞いていらっしゃい」
「夜中(よなか)は分りきっているが、何時頃かと雲うんだ」
「まあ、そうですな」と答える。巡査は笑いもせずに
「それから?」
主人は筆硯(ふですずり)を座敷の真中へ持ち出して、細君を前に呼びつけて「これから盜難告訴をかくから、盜られたものを一々雲え。さあ雲え」とあたかも喧嘩でもするような口調で雲う。
「あなたんでさあね。代価が二十七銭」
「あら厭(いや)だ、さあ雲えだなんて、read•99csw•comそんな権柄(けんぺい)ずくで誰が雲うもんですか」と細帯を巻き付けたままどっかと腰を據(す)える。
「御前のか」
「ええ」と主人は少し極(きま)りがわるそうである。
「これで悪るければ買って下さい。宿場女郎でも何でも盜られりゃ仕方がないじゃありませんか」
「その風はなんだ、宿場女郎の出來損(できそこな)い見たようだ。なぜ帯をしめて出て來ん」
「どんな帯って、そんなに何本もあるもんですか、黒繻子(くろじゅす)と縮緬(ちりめん)の腹合せの帯です」
「そんなら十二円五十銭くらいにしておこう」
「帯までとって行ったのか、苛(ひど)い奴だ。それじゃ帯から書き付けてやろう。帯はどんな帯だ」
「すると盜賊の這入(はい)ったのは、何時頃になるかな」
「黒繻子と縮緬の腹合せの帯一筋――価(あたい)はいくらくらいだ」
「たしかなところはよく考えて見ないと分りませんわ」と細君はまだ考えるつもりでいる。巡査はただ形式的に聞いたのであるから、いつ這入ったところが一向(いっこう)痛癢(つうよう)を感じないのである。噓でも何でも、いい加減な事をread.99csw.com答えてくれれば宜(よ)いと思っているのに主人夫婦が要領を得ない問答をしているものだから少々焦(じ)れたくなったと見えて
「いいじゃありませんか、あなたに買っていただきゃあしまいし」
「それじゃ盜難の時刻は不明なんですな」と雲うと、主人は例のごとき調子で
「ええ羽織何點代価いくらと雲う風に表にして出すんです。――いや這入(はい)って見たって仕方がない。盜(と)られたあとなんだから」と平気な事を雲って帰って行く。
「そんな講釈は聞かんでもいい。値段はいくらだ」
「まあいいや、それから何だ」
「山の芋まで持って行ったのか。煮て食うつもりか、とろろ汁にするつもりか」
「俺の寢たのは御前よりあとだ」
「そんな帯があるものですか。それだからあなたは不人情だと雲うんです。女房なんどは、どんな汚ない風をしていても、自分さい宜(よ)けりゃ、構わないんでしょう」
「何時頃かな」
「しかし御前は知らんと雲うじゃないか」
「七時半でしたろう」
「あなたは夕(ゆう)べ何時に御休みになったんですか」
「なんでも夜なかでしょう」
「十五円」
「いくらするか」