0%
七 - 8

七 - 8

「そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「それで、どっちだか分ったんですか」
「それは名前だ。長い字を知ってるか」
「これが精一杯のところですよ」
「うん」
「大変だと雲うならよしてやるから、その代りもう少し夫(おっと)を大事にして、そうして晩に、もっと御馳走を食わせろ」
「もう御よしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」と苦々(にがにが)しい顔をする。
「いいものか、これが現に國語家の頭脳を支配している大問題だ」
「桂月って何です」さす九*九*藏*書がの桂月も細君に逢っては一文(いちもん)の価値もない。
「なくって仕合せだわ。今から道楽なんぞ始められちゃあ大変ですよ」
「ええ。そうしたら御飯ですよ」
「意味はしらん。ただ綴(つづ)りだけ知ってるんだ。長く書くと六寸三分くらいにかける」
「ええ、前(さき)の関白太政大臣でしょう」
「飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか」
他人なら酒の上で雲うべき事を、正気で雲っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒を無暗read.99csw.com(むやみ)にのむ。平生なら豬口(ちょこ)に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でも隨分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼火箸(やけひばし)のようにほてって、さも苦しそうだ。それでもまだやめない。「もう一杯」と出す。細君はあまりの事に
「馬鹿をおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思をして酒を飲めなんて、余計な事ですわ」
「あらまあ、貓の鳴き聲がですか、いやな事ねえ。だって、貓の鳴き聲は日本語じゃあないじゃありませんか」
「酒ばかりじゃないread.99csw.com。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった」
「道楽もいいさ。桂月が勧めなくっても金さえあればやるかも知れない」
「出鱈目(でたらめ)でしょう」
「出鱈目なものか、希臘語(ギリシャご)だ」
「知らないわ、――御酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」
「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究と雲うんだ」
「何という字なの、日本語にすれば」
「今夜はなかなかあがるのね。もう大分(だいぶ)赤くなっていらっしゃいますよ」
「字って橫文字ですか」
九九藏書「なおわるいじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああきれた。妻子のあるものに道楽をすすめるなんて……」
「なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。大町桂月(おおまちけいげつ)が飲めと雲った」
「Archaiomelesidonophrunicherata と雲う字だ」
「いや、まだ飲む。一番長い字を教えてやろうか」
「桂月は現今一流の批評家だ。それが飲めと雲うのだからいいに極(きま)っているさ」
「そのはいは感投詞か副詞か、どっちだ」
「どっちですか、そんな馬鹿気た事はどread.99csw.comうでもいいじゃありませんか」
「そうかしらん。それじゃ道楽は追って金が這入(はい)り次第やる事にして、今夜はこれでやめよう」と飯茶椀を出す。何でも茶漬を三ぜん食ったようだ。吾輩はその夜(よ)豚肉三片(みきれ)と塩焼の頭を頂戴した。
「重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の餚(さかな)をむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚と芋(いも)のにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑(だいけいべつ)の調子をもって飲み込んだ。「酒をもう一杯飲もう」と杯(さかずき)を出す。