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十 - 2

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「まだお起きにならないのですか」と聲をかけたまま、しばらく立って、首の出ない夜具を見つめていた。今度も返事がない。細君は入口から二歩(ふたあし)ばかり進んで、箒をとんと突きながら「まだなんですか、あなた」と重ねて返事を承わる。この時主人はすでに目が覚(さ)めている。覚めているから、細君の襲撃にそなうるため、あらかじめ夜具の中に首もろとも立て籠(こも)ったのである。首さえ出さなければ、見逃(みのが)してくれる事もあろうかと、詰まらない事を頼みにして寢ていたところ、なかなか許しそうもない。しかし第一回の聲は敷居の上で、少くとも一間の間隔があったから、まず安心と腹のうちで思っていると、とんと突いた箒が何でも三尺くらいの距離に追っていたにはちょっと驚ろいた。のみならず第二の「まだなhttps://read.99csw.comんですか、あなた」が距離においても音量においても前よりも倍以上の勢を以て夜具のなかまで聞えたから、こいつは駄目だと覚悟をして、小さな聲でうんと返事をした。
坊やは――當人は坊やとは雲わない。いつでも坊ばと雲う――元祿が濡れたのを見て「元(げん)どこがべたい」と雲って泣き出した。元祿が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して來て、雑巾を取上げて著物を拭(ふ)いてやる。この騒動中比較的靜かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉(しろい)の瓶(びん)をあけて、しきりに御化粧を施(ほどこ)している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫(な)でたから竪(たて)に一本白い筋がread.99csw.com通って、鼻のありかがいささか分明(ぶんみょう)になって來た。次に塗りつけた指を転じて頬の上を摩擦したから、そこへもってきて、これまた白いかたまりが出來上った。これだけ裝飾がととのったところへ、下女がはいって來て坊ばの著物を拭いたついでに、すん子の顔もふいてしまった。すん子は少々不満の體(てい)に見えた。
元祿で思い出したからついでに喋舌(しゃべ)ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥(おびただ)しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を雲ってる。火事で茸(きのこ)が飛んで來たり、御茶(おちゃ)の味噌(みそ)の女學校へ行ったり、恵比壽(えびす)、台所(だいどこ)と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と雲うから、よくよく聞き糺(九*九*藏*書ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が學校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬(ごびゅう)を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
吾輩はこの光景を橫に見て、茶の間から主人の寢室まで來てもう起きたかとひそかに様子をうかがって見ると、主人の頭がどこにも見えない。その代り十文半(ともんはん)の甲の高い足が、夜具の裾(すそ)から一本食(は)み出している。頭が出ていては起こされる時に迷惑だと思って、かくもぐり込んだのであろう。亀の子のような男である。ところへ書斎の掃除をしてしまった妻君がまた箒(ほうき)とはたきを擔(かつ)いでやってくる。最前(さいぜん)のように襖(ふすま)の入口から
顔を洗うと雲ったところ九-九-藏-書で、上の二人が幼稚園の生徒で、三番目は姉の尻についてさえ行かれないくらい小さいのだから、正式に顔が洗えて、器用に御化粧が出來るはずがない。一番小さいのがバケツの中から濡(ぬ)れ雑巾(ぞうきん)を引きずり出してしきりに顔中撫(な)で廻わしている。雑巾で顔を洗うのは定めし心持ちがわるかろうけれども、地震がゆるたびにおもちろいわと雲う子だからこのくらいの事はあっても驚ろくに足らん。ことによると八木獨仙君より悟っているかも知れない。さすがに長女は長女だけに、姉をもって自(みずか)ら任じているから、うがい茶碗をからからかんと拋出(ほうりだ)して「坊やちゃん、それは雑巾よ」と雑巾をとりにかかる。坊やちゃんもなかなか自信家だから容易に姉の雲う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と雲いながら雑巾を引っ張https://read•99csw•comり返した。このばぶなる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪(かんしゃく)を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽた雫(しずく)が垂(た)れて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも元祿(げんろく)を著ているのである。元祿とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形(ちゅうがた)の模様なら何でも元祿だそうだ。一體だれに教わって來たものか分らない。「坊やちゃん、元祿が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が灑落(しゃ)れた事を雲う。その癖(くせ)この姉はついこの間まで元祿と雙六(すごろく)とを間違えていた物識(ものし)りである。