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十 - 16

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「浜田が送ったのかい」
「だから、話しにくいと雲うんです」
「ちっとも要領を得ないな。では誰も送らんのかい」
「何が?」
「浜田に下宿料でも借したのかい」
「いいえ、學校の名なんか書きゃしません」
「誰だか分らないんです」
「話す事があるなら、早く話したらいいじゃないか」
「いいだろう」と主人は勝手な判斷をする。
「名前を借したんです」
「だから、名前は廃(よ)して、投函役(とうかんやく)になると雲ったんです」
「そうじゃないんです」
「ええ」
「何がって、はなはだ困るもんですから、來たんです」
「じゃ何を借したんだい」
「そんな事をする考はなかったんですけれども、浜田(はまだ)が借せ借せと雲うもんですから……」
「うむ。どんな事かね。さあ話したまえ」と雲うhttps://read.99csw•comと武右衛門君下を向いたぎり何(なん)にも言わない。元來武右衛門君は中學の二年生にしてはよく弁ずる方で、頭の大きい割に脳力は発達しておらんが、喋舌(しゃべ)る事においては乙組中鏘々(そうそう)たるものである。現にせんだってコロンバスの日本訳を教えろと雲って大(おおい)に主人を困らしたはまさにこの武右衛門君である。その鏘々たる先生が、最前(さいぜん)から吃(どもり)の御姫様のようにもじもじしているのは、何か雲(い)わくのある事でなくてはならん。単に遠慮のみとはとうてい受け取られない。主人も少々不審に思った。
「じゃ君が、どこかの女に艶書を送ったのか」
「どうでしょう退校になるでしょうか」
「話してもいいでしょ九九藏書うか?」と武右衛門君はまだ迷っている。
「名前だけは君の名だって、何の事だかちっとも分らんじゃないか。もっと條理を立てて話すがいい。元來その艶書を受けた當人はだれか」
「それじゃ用事かね」
「ええ、ですけれども、あとから考えると、もしあらわれて退學にでもなると大変だと思って、非常に心配して二三日(にさんち)は寢られないんで、何だか茫(ぼん)やりしてしまいました」
「少し話しにくい事で……」
「実はその……困った事になっちまって……」
「浜田が君の名前を借りて何をしたんだい」
「名前だけは僕の名なんです」
「そりゃまた飛んでもない馬鹿をしたもんだ。それで文明中學二年生古井武右衛門とでもかいたのかい」
「ええ、文章は浜田が書いたんです。僕が名前を借して遠藤が夜あすこ九-九-藏-書のうちまで行って投函して來たんです」
「艶書(えんしょ)を送ったんです」
「じゃ誰が送ったんだい」
「交際も何もありゃしません。顔なんか見た事もありません」
「だからさ、何が困るんだよ」
「だから滅多(めった)な真似をしないがいい」
「ええ、少し御話ししようと思って……」
「艶書(えんしょ)を送ったんです」
「あすこの娘がハイカラで生意気だから艶書を送ったんです。――浜田が名前がなくちゃいけないって雲いますから、君の名前をかけって雲ったら、僕のじゃつまらない。古井武右衛門の方がいいって――それで、とうとう僕の名を借してしまったんです」
「何そんなものを借したんじゃありません」
「何を送った?」
「君遊びに來たのか」
「ええ」
「いいえ、僕じゃないんです」
「では話し九-九-藏-書ますが」といいかけて、毬栗頭(いがぐりあたま)をむくりと持ち上げて主人の方をちょっとまぼしそうに見た。その眼は三角である。主人は頬をふくらまして朝日の煙を吹き出しながらちょっと橫を向いた。
「金田って向橫丁(むこうよこちょう)にいる女です」
「ただみんながあいつは生意気で威張ってるて雲うから、からかってやったんです」
「學校の名を書かないだけまあよかった。これで學校の名が出て見るがいい。それこそ文明中學の名譽に関する」
「話しにくい?」と雲いながら主人は武右衛門君の顔を見たが、先方は依然として俯向(うつむき)になってるから、何事とも鑑定が出來ない。やむを得ず、少し語勢を変えて「いいさ。何でも話すがいい。ほかに誰も聞いていやしない。わたしも他言(たごん)はしないから」と穏(お九_九_藏_書だ)やかにつけ加えた。
「あの金田という実業家か」
「ますます亂暴だな。じゃ君の名を公然とかいて送ったんだな」
「學校の事かい」
「で、君はあすこの娘を知ってるのか。交際でもあるのか」
「じゃ三人で共同してやったんだね」
「そうさな」
「浜田でもないんです」
「浜田と雲うのは浜田平助(へいすけ)かい」
「亂暴だな。顔も知らない人に艶書をやるなんて、まあどう雲う了見で、そんな事をしたんだい」
「先生、僕のおやじさんは大変やかましい人で、それにお母(っか)さんが継母(ままはは)ですから、もし退校にでもなろうもんなら、僕あ困っちまうです。本當に退校になるでしょうか」
「ええ」
「艶書を送った?誰に?」
「で、名前だけ借したとは何の事だい」
「何だか要領を得んじゃないか。一體誰が何をしたんだい」