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十一 - 5

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「アハハハハ別段難でもないさ。僕の妻(さい)は元來僕を愛しているのだから」
「しかし極(きま)りがつかないから……」
「なに大丈夫だ」
「小供を連れて、さっき出掛けた」
「まあそうだ。君は獨身でいいなあ」と雲うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は
「ええ?ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狹いと思ったら、四十六目(もく)あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって?」
「妻(さい)を持つとみんなそう雲う気になるのさ。ねえ獨仙君、君なども妻君難の方だろう」
「君の國の書生と來たら、本當に話せないね。元來何だって、紺(こん九*九*藏*書)の無地の袴(はかま)なんぞ穿(は)くんだい。第一(だいち)あれからして乙(おつ)だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人這入(はい)ると肝心(かんじん)の話はどっかへ飛んで行ってしまう。
「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域(いき)に入(い)るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と戀だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完(まっと)うしなければ天意に背(そむ)く訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変らず真面目で迷亭君のhttps://read.99csw.com方へ向き直った。
「君も妻君難だろうと雲うのさ」
「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを獨習したのは見上げたものだ。 獨(けいどく)にして不羣(ふぐん)なりと楚辭(そじ)にあるが寒月君は全く明治の屈原(くつげん)だよ」
「土地柄がすでに土地柄だのに、私の國のものがまた非常に頑固(がんこ)なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと雲って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」
「いないのかい」
「因果(いんが)だね。ねえ苦沙彌君」
「それでよく貰い手があるね」
「御名read•99csw.com論だ。僕などはとうてい絶対の境(きょう)に這入(はい)れそうもない」
「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」
「だって一國中(いっこくじゅう)ことごとく黒いのだから仕方がありません」
「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく鋒鋩(ほうぼう)を収めると、
「女もあの通り黒いのです」
「獨仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。
「そんな事を雲うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。
「屈原はいやですよ」
「それじゃ今世紀のウェルテルread•99csw.comさ。――なに石を上げて勘定をしろ?やに物堅(ものがた)い性質(たち)だね。勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ」
「だって一國中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚(うぬぼ)れはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。
「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して來た。獨仙君は丹念に白石を取っては白の穴を埋(う)め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の內で計算をしている。寒月君は話をつづける。
「そいつは少々失敬した。それでこそ獨仙君だ」
「どうれで靜かだと思った。どこへ九-九-藏-書行ったのだい」
「黒い方がいいだろう。生(なま)じ白いと鏡を見るたんびに己惚(おのぼれ)が出ていけない。女と雲うものは始末におえない物件だからなあ」と主人は喟然(きぜん)として大息(たいそく)を洩(も)らした。
「そうして勝手に帰ってくるのかい」
「妻(さい)を貰えばなお這入れやしない」と主人はむずかしい顔をして雲った。
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」
「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が雲うと、
「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚(けいけんだん)をきいているのです」