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十一 - 22

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茶の間ではしんとして答がない。
「まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「次にはダイオジニスが出ている。或る人問う、妻を娶(めと)るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未(いま)だし、老年はすでに遅し。とある」
「先生樽(たる)の中で考えたね」
「ピサゴラス曰(いわ)く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」
「アリストートル曰(いわ)く女はどうせ碌(ろく)でなしなれば、嫁をとるなら、大きな嫁より小さな嫁をとるべし。大きな碌でなしより、小さな碌でなしの方が災(わざわい)少なし……」
「みんな聞いてるよ。獨身の僕までhttps://read.99csw.com聞いてるよ」
「いろいろ女の悪口があるが、その內には是非君の妻(さい)も這入る訳だから聞くがいい」
「まず古來の賢哲が女性観を紹介すべしと書いてある。いいかね。聞いてるかね」
「奧さん、今のを聞いたんですか。え?」
「先生方は大分(だいぶ)厭世的な御説のようだが、私は妙ですね。いろいろ伺っても何とも感じません。どう雲うものでしょう」と寒月君が雲う。
「ソクラチスは婦女子を御(ぎょ)するは人間の最大難事と雲えり。デモスセニス曰く人もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に與うるより策の得たるはあらず。家庭の風波に日とread.99csw.comなく夜(よ)となく彼を困憊(こんぱい)起つあたわざるに至らしむるを得ればなりと。セネカは婦女と無學をもって世界における二大厄とし、マーカス·オーレリアスは女子は制御し難き點において船舶に似たりと雲い、プロータスは女子が綺羅(きら)を飾るの性癖をもってその天稟(てんぴん)の醜を蔽(おお)うの陋策(ろうさく)にもとづくものとせり。ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告げて曰く天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず。願わくは皇天憐(あわれみ)を垂れて、君をして彼等の術中に陥(おちい)らしむるなかれと。彼また曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや九-九-藏-書。避くべからざる苦しみにあらずや、必然の害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜(みつ)に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責(かしゃく)と雲わざるべからず。……」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「構うものか」と雲った。
「女に逢ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
「ええ聞きますよ。ありがたい事になりましたね」
「寒月君の妻君は大きいかい、小さいかい」
「希臘(ギリシャ)の哲學者などは存外迂濶(うかつ)な事を雲うものだね。僕に雲わせると天下に恐るべきものなし。火に入(い)って焼けず、水にhttps://read.99csw.com入って溺れず……」だけで獨仙君ちょっと行き詰る。
「いよいよ驚ろいた。その時分すでに私の妻(さい)の悪口を雲ったものがあるんですか」
「大きな碌でなしの部ですよ」
「ハハハハ、こりゃ面白い本だ。さああとを読んだ」
「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ聲がする。
「そりゃ妻君を持ち立てだからさ」と迷亭君がすぐ解釈した。すると主人が突然こんな事を雲い出した。
「奧さん、奧さん。いつの間(ま)に御帰りですか」
「少し驚きましたな。元來いつ頃の本ですか」と聞く。「タマス·ナッシと雲って十六世紀の著書だ」
「もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません」
九*九*藏*書賢者ってだれですか」
「妻(さい)を持って、女はいいものだなどと思うと飛んだ間違になる。參考のためだから、おれが面白い物を読んで聞かせる。よく聴くがいい」と最前(さいぜん)書斎から持って來た古い本を取り上げて「この本は古い本だが、この時代から女のわるい事は歴然と分ってる」と雲うと、寒月君が
「名前は書いてない」
「もうたいていにするがいい。もう奧方の御帰りの刻限だろう」と迷亭先生がからかい掛けると、茶の間の方で
「どうせ振られた賢者に相違ないね」
「或る人問う、いかなるかこれ最大奇蹟(さいだいきせき)。賢者答えて曰く、貞婦……」
「こいつは大変だ。奧方はちゃんといるぜ、君」
答はまだない。